カリプソのもつ最大の魅力とは何だろうか?それは、歌い手であるカリプソニアンの個性、そして生き様そのもの、と言えるだろう。とにかく、人間的魅力に溢れたアーティストばかりなのだ。トップに君臨するカリプソニアンたちは皆、己の何たるかということ、自分自身の持ち味というものを熟知している。それぞれに合った自己演出を極めた一流のエンターティナーたちなのだ。
決して、技術的に歌が上手いというわけではないし、風貌も一風変わっていて、世捨て人風だったり、あるいは逆に、そのへんの普通のおっさんぽかったりする。だが、そういった一見、マイナス要素と言えそうなものも含めた自らのすべてを、アーティストとしての個性・表現力に、変換→出力してしまえるのが彼等のすごいところだ。ステージに一旦立つと、別人のようにカリスマ的な輝きを放ち出すのである。かといって、自然体で力みもしない。なのに、どうすれば場を盛り上げられるのかをちゃんと理解しているのだ。
カリプソニアンたちのステージを見ていると、本当に音楽を愛していて、聴衆を楽しませたいという、彼等のあたたかい気持ちがじわりと伝わってくる。エンターティナーとはかくあるべし。彼等カリプソニアンは、何もかもお膳立てされていないと歌えないような、人工的な匂いがプンプン漂うアメリカのショービズ界のギラついたスターなんかとは、全く違う次元に存在している。人々がカリプソニアンを必要としているところなら、どこだって出かけていって歌うのだ。
そんな彼等が自在に紡ぎ出すメロディ、リズム、そしてリリックス。それらが三位一体となって、各カリプソニアンの個性、人となりを強烈に印象づける。カリプソにおいては、中でもリリックス(歌詞)が非常に重要な要素であり、各カリプソニアンの個性をもっとも色濃く反映しているとも言える。
カリプソとは元来、かつての欧米列強による植民地支配下のトリニダードにおいて、社会的・政治的なトピックを積極的に取り上げ、真実を大衆に伝えることを目的とする『poorman's newspaper =貧者の新聞』として機能してきた歴史を持っている音楽だ。それだけに、カリプソニアンに必要なのはルックスでも美声でもない。『頭の切れ』すなわち、その場で即興の詞を書き下ろせるような、高度な知力と機転、文学的センスこそが要求されるのである(これはヒップホップのMCに通ずるものがある、というか、再三述べているが、ラップのルーツはカリプソにあるのだから当然か)。
カリプソニアンたちは、ウィットに富んだ詞を軽快なメロディーと力強いリズムに乗せ、自らの身の危険をも顧みず、いかにして圧政に苦しんでいた当時の人々の心の内を代弁し、彼等の溜飲を下げることができるかに挑んできた。これは現在でも基本的には変わらない。今も昔もカリプソ・テントに集まる聴衆を唸らせ、沸かせるのは、気のきいたリリックスを味わい深く聞かせることのできるカリプソニアンなのである。
ご存知のように、ソカはカリプソから派生したジャンルであるわけだが、今日、若者の間で主流となっているパワー・ソカでは、その単純明快さと大胆不敵さが魅力であり、また音楽的にも、それこそが求められる機能でもある。何故なら、今日のソカは完全に、カーニバルあるいはフェットのために存在するパーティ・ミュージックであるからだ。どれだけ飛んで跳ねて踊れるかが重視されるわけで、歌詞のほうは正直、お粗末なものが多いのが現状だ。ソカ・アーティストも、ダンスが上手とかセクシーである等の、見た目中心で評価されがちだ。ひねりのきいた歌詞や、歌い手の人間的魅力、知性、年輪を重ねたことによる深みなどは求められにくい。よってその点では特に、今日のソカとカリプソは似て非なる音楽と言えるだろう。
もっとも、非常に面白いのは、マイティ・スパロウのような大御所が、『え?カリプソとソカの違いだって?カリプソを速いテンポで演奏したのがソカだよ(と言ってリズムを口ずさみだす)。ほ〜ら、ソカみたいに聞こえるだろう?わっはっは』という具合に捉えていることである(バックステージでの実話です)。しかしながら、スパロウも半分冗談というか、老境の戯れ、あるいは彼一流の皮肉でそう言っていることは間違いない。というのは、かつて彼が発表した『Soca Man』という曲の歌詞で、売れ線のソカを積極的に取り入れていたロード・キチナーのようなカリプソニアンを痛烈に批判しているのである。『ソカが聞きたきゃ俺じゃないよ、キチナーみたいなソカマンのとこに行ってくれ』と歌っているのだ。曲の中で、スパロウは自らを『カリプソニアン』であると自負し、『ソカマン』ではないとはっきり宣言しているのである。
カリプソニアンは、一流の音楽家であり、反体制の活動家であり、ジャーナリストであり、そして詩人でもある、そんな誇り高い存在だ。彼等の書く歌詞を理解することができれば、カリプソを聞くのも数倍楽しめる。キチナー、シャドウ、ブラック・スターリン、デイヴィッド・ラダー等のアーティストたちは、サウンド的にはソカを取り入れて人気を博したけれども、彼等の書く素晴らしいリリックを聞くにつけ、スパロウの思惑とはまた別に、やはり彼等はソカマンではなく、生粋のカリプソニアンであると言いきれるのだ。
そこで、次回より、なぜ彼等がソカマンではなくカリプソニアンたるか、を雄弁に語ってくれる数々の名曲の歌詞を、日本語訳と共に少しずつご紹介していきたいと思う。言葉の壁に囚われず、カリプソにサウンド面以外からの興味も持っていただけたならとても嬉しい。
写真はいずれも、1950年代のカリプソ・テント(カリプソ専門のコンサートホール)
後列中央の白いスーツ姿は、若き日のマイティ・スパロウ。生まれながらのカリプソニアンだけあり、すでにスターのオーラが漂っている。