前回の記事でKevonとNelsonがハモっていたスイートな曲ですが、これが原曲です。
今のソカ・アーティスト達に、こういう、ジャンルを越えた良さのある曲を作れるだけの幅とか奥行きが無いのが残念です。今風に言うとグルーヴィー・ソカなんてジャンルになるのかもしれませんが、この曲、何と60年代後半の録音で、ノイズ等を除去するためマスタリングし直しただけだそうです。今聴いてもまったく古臭く無いのが凄いです。ソカ、カリプソという枠に収まり切らない、『いい曲』だと思います。モータウンとかの良質なソウル、R&Bを彷彿とさせますね。美メロもさることながら、コーラスやホーンセクションでの絶妙な味付けが実に心憎い。何しろほっとするというか癒されます。何か夏の夕方のビーチとか、夜更けの野外パーティとか、そういう時のリラックスした空気に合いそうなメロウな良曲です。
Lord Nelsonという人はとてもサービス精神旺盛で、この前の記事の『Disco Daddy』のビデオなんかで見られるようなユーモラスなパフォーマンスで、観客を必ず楽しませてくれる真のショーマンシップの持ち主なんですが、こういう曲も書いているだけに、実は非常に真摯で繊細な芸術家です(お決まりの『アーティスト』という呼称では無く、ここはあえて、芸術家と呼びたい)。この前お話しした時も、ソカ=品のない馬鹿騒ぎ用の音楽、と世間で取られがちな事を大変嫌っておられたのが印象的でした。彼は当たり前ですがトリニダード・トバゴ人ですから、カーニバルを愛してますし、カーニバルを盛り上げる要素としてのソカの性格もわかっておられる(つーか、この方、50年代から一線で活躍しているその道の超大御所なんですから!筆者達みたいな若造がおいそれと話しかけられるような人じゃないんです、本当は…)からこそ、その発言に何とも言い難い切実さとか嫌悪感を垣間見ました。
何しろ、今やパソコン一台で、クローンのように音楽が量産出来る時代です。さほど音楽的才能が無くともデジダル技術に通じていればプロデューサーを名乗れますから、ちょっとルックスが良い子を引っ張ってきて、どこかで聴いたようなメロディーにどうでもいいような適当な歌詞を歌わせて、音声処理すればあっという間に『音楽アーティスト』の出来上がりです。昔程、苦労が無い代わりに、創造性も無いわけです。器用さと創造性を両立させてこそ真の音楽プロデューサーを名乗れるんですけどねえ。既存の曲をちょこっといじって使っただけだったりとか、『なんたらリディム』なんて、ダンスホールレゲエの如きトラックの使い回しも平気で行われてますし。昔のソカにはそんなの無かったです。一曲一曲が完全なオリジナルで、そのアーティストらしさが出ていました。
今、市場に出ているアーティストの何人が本当に音楽的実力があるだろうかと考えると嘆かわしいです。昔は、誤摩化しが効かなかったという意味でホンモノの才能しか生き残れなかったですが、今やオプション材料でいろいろ飾り立てることで目くらましが効きますから、商品としてパッケージ売りするような方法でスターを仕立て上げることができる時代です。分かりやすい例では現在の90%ぐらいのアメリカのR&B、ヒップホップのメジャーアーティストがこの手です。とても、もうマイケル・ジャクソンに比肩する存在なんて出ないでしょうね。若いソカ・アーティスト達はそういう風に作り込まれたアメリカ人アーティストたちを『成功したビジネスモデル』とか『時代のアイコン』と錯覚して手本にしちゃうわけですからねえ。
まあ時代というものは移り変わるものですし、世の中の商業活動は需要と供給のバランスの上に成り立っていますし、長いものには巻かれろという言葉もあります。仕方ないのかもしれません。ですが、トリニ音楽の話に戻ると、ひと昔まえのカーニバルでは、David RudderとかCalyso Roseなんかがロードマーチを獲っていたわけですよね。その頃のカリプソ/ソカで、ロードマーチとして支持を受けた曲、アーティスト達にはスピリットがあったというか、アート性とエンタテイメント性が非常に高い水準で融合していたと言えます。マスも、Peter Minshallの全盛期で、David RudderによるロードマーチでMinshallのバンドがパレードなんて、もう鳥肌モノだったそうです。当時にカーニバルを体験することが出来た人というのは、今のカーニバルは今でまあ良いけど、あの頃のは全く別モノの高揚感があり、もっと地元に根付いた土着的な熱い空気があった、と口々に言います(特にその頃に、少年〜青年時代を過ごした人たち)。
まあ現代では、カーニバルも一大観光産業ですから、例えばメジャーなマスバンド(TRIBEとかIP)の利益なんか外貨で持っているわけですし、国が経済的に潤うならそれはそれで良いことですが、一方で古くからのいいモノというのが忘れられつつあるわけで、最も恐ろしいのが若い世代がその事にほとんど無頓着であるということでしょう。オールド・マスやモコ・ジャンビー等はこれからも残されていくと思いますが、カリプソとか、そういう無形のもので精神性と直接関係してくるものが危ないです。カリプソニアン達もどんどん高齢化していますから。
個人的には、今のソカの大半に対して、メジャーどころのヒップホップやダンスホール・レゲエをうまいこと取り入れたつもりが実は内部から侵食されて穴だらけなのに、でも誰も(アーティスト自身が)それに気がつかない、みたいなスカスカな印象を持っています。もちろん良曲も中にはありますが、大半は精神性の欠如という点で厳しいです。ひたすら踊って楽しむためにあるカーニバルの音楽に精神性を持ち込むのはナンセンスという見方もあるのでしょうが、先にも述べたように、現に、シリアスな(この場合は本格派、という意味です)カリプソニアンたちがロードマーチを獲っていた時代があったわけで、決して相容れないものではないのですけどね。その辺は、これも時代の流れだから、とのひとことで片付けられてしまいそうですが、本来はアーティストの『力量』次第です。マスではMinshallの提示した伝統を受け継ぐべく、Brian MacFarlaneが頑張ってくれてますが、欲を言えば、もうひと回り若い世代に出てきてもらいたいなと思います。当然、音楽のほうでも。
また話が前後しちゃいましたけど、このGimme Loveを聴いていただくとわかりますが、Nelsonという音楽家のもつ細やかな本質が良く出ています。この曲に関してはロードを盛り上げるようなタイプの曲ではないですが、カリプソ、ソカというフォーマットを用いてこういう曲を作ることが出来るという希有な例です。カリプソ、ソカらしいグルーヴ感にソウル的テイストや、繊細なNelsonらしさが幸せな形で結実した一作でしょう。ひと昔前から活躍しているカリプソ/ソカ・アーティストは皆、RudderにしろStalinにしろ、こういう良い意味での柔軟性を持っていますね。今は、柔軟性と媚を売る事を勘違いしているアーティストが多過ぎます(それが表現者としての奥行きの無さ、幅の無さに繋がってくるわけで)。
NelsonはNYでも、カリビアン達が集まるコンサートやパーティ、Limeの場でとても人気があります。必ず(ほぼ100%)の確率で、一晩のうちにNelsonのヒット曲のどれかがかかります。そういう意味でパーソナルな感じというか親しみやすいアーティストなのでしょうね。一家に一枚はNelsonみたいな。Nelsonが嫌いというトリニ人をまず見た事がありません。そういう意味で本当に国民的歌手です。